| 沈黙から静けさへ 2008年7月20日 | |
その音楽を何度聴いたかわからない。十代の頃から聴き続けてきた音楽がある。シューベルトのピアノ曲「即興曲」や「ソナタ」である。先日も「幻想ソナタ」を聴いていて、ふとある言葉が脳裏に浮かんできた。「静けさ」という言葉である。かれの音楽にはいつも、激しい旋律が鳴り響いている時にも、その底には「静けさ」が漂っていると感じたからだ。それと同時に、気づいたことがあった。現代を生きるわたしたちは、この「静けさ」をどこかで失ったということだ。わたしがシューベルトの音楽に惹かれ続けてきたわけは、その底にある「静けさ」にあったのかもしれない。 いつからだろうか、芸術家は「静けさ」を表現できなくなったと思う。わたしには、近代の特に20世紀以降の芸術作品に、このような「静けさ」を感じない。「静けさ」の代わりに、わたしが感じるのはいつも「沈黙」である。しかし、現代の芸術家も「静けさ」への憧れを失ってはいない。20世紀を代表する画家ピカソは、19世紀の画家コローの作品を数多く収集していたという。コローの作品には、たしかに「静けさ」がある。 現代の「沈黙」を象徴するような作品がある。現代音楽の作曲家として知られるジョン・ケージの有名な作品に4分33秒がある。舞台中央に置かれたピアノに向かって演奏家が座るが、その間ただ座り続け一音も発しない。詩人である谷川俊太郎のエッセイに「沈黙のまわり」がある。その中に、このような一節がある。「ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼らは沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。」日本を代表する現代音楽家である武満徹が書いた「音、沈黙と測りあえるほどに」というエッセイ集は、わたしの20代の愛読書のひとつだった。現代とまっすぐに向き合いながら発せられた武満の新鮮な言葉に、わたしはいつも力付けられた。 なぜ「静けさ」から「沈黙」へと変わっていったのか。芸術家が「沈黙」と向き合うことになった理由はなにか。これらを深く考えることで、現代という時代が浮かび上がってくるかもしれない。 シューベルトから「静けさ」という言葉を見つけた直後に、偶然にもわたしは全く別のところで同じ言葉を見つけた。それは、20世紀を代表する哲学者ハイデッガーの著作「野の道での会話」の中にあった。賢者と科学者、学者の三人が野の道を歩きながら会話する形式をとりながら、科学技術に支配された現代の危機と技術の本質についての深い思索がつづられている。その一節にはこうある。「静けさに関して重要なのは、その近くに人間の本質が憩うていること」「静けさをそれ自体において働かせることができれば・・」 会話といっても、自分で設定した枠組みを他人に押し付けてきたり、他人の意見を手際よく自分達のカテゴリーで整理してくれる人に会ってうんざりとすることがある。このような人との会話には、たしかに「静けさ」がない。長々とした説明と自己主張によって隙間なく空間が埋められていく感じがして、とにかく息苦しくなる。「静けさ」を失った会話に対する拒絶反応を、わたしは子どもの頃から持っているらしい。わたしはこのような会話に入ると沈黙することに決めていたので、中学生の頃から「無口な人」とよく言われた。 上記の本の中でハイデッガーはこうも述べている。「本来の会話においては何かが言葉へと到来することが起こっているように思える」普段当たり前に使っていた言葉から何か全く新しい意味が生まれて来る瞬間を、わたしも会話の中で時々体験することがある。むしろ、わたしは会話にそれが起きる瞬間をいつも待っているのかもしれない。言葉が「出来事」になる瞬間とは、意味や価値のネットワークがいつの間にか広がり、新しい文脈が浮上してきた瞬間でもある。そのような会話はいつも「静けさ」に支えられているように思う。だから、わたしは「静けさ」に憧れる。 最後に、以前から気になっている「静けさ」がある。それは、松尾芭蕉の「奥の細道」にある次の一句だ。「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」 わたしも数年前に、この句が詠まれた立石寺を訪ねたことがある。木々の間の急な坂道を登りながら、芭蕉が訪れた時にも全山蝉の声に被われていたに違いないと思った。今この句を改めて読むと、「しずかさ」(静けさ)とは、堅い岩も蝉の声もすべてがしみ入り(溶け込み)、同時に生成してくる場、つまり自然の本質のように思えてくる。 フランスの記号学者ロラン・バルトは「俳句の読解の企ては、言葉を宙づりにすること」と言っているが、わたしは彼とはだいぶ違うイメージを持っている。わたしなら次のように言いたい。「静けさの上に言葉を浮かべてみること」 霞ヶ浦の水面が夕暮れの静けさに被われるとき、カイツブリがピリリピリリと鳴きながら水面にプラチナの線を引いて漂う。一日を無事に終えたという安堵感があたりを被う。次の瞬間、小さな水鳥の影は水面から姿を消したと思うと、しばらくして思いもかけない所に再び浮かび上がる。ピリリと静かに鳴き交わす声と共に。 「静けさ」を「沈黙」に変えてはならない。 |
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| NPO法人アサザ基金 代表理事 飯島 博 |